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樋口 雅子

明治図書出版 編集長

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けもの道VS桧舞台 [2010年09月06日(月) ]



「それにしても東大のY先生、よくノッテくれたもの…」
「あの、編集部のオッチョコチョイがあったから、“勝てる”と自信を深められたのでは…」
「もし、あの連載なかりせば、法則化運動はなかったかも?!」
「そういう点では、Y先生、歴史的貢献をされたことになりますね…」

この土曜、来年3月5日、京都女子大付属小学校で開催される日本言語技術教育学会の理事会がありました。この会の立ちあげに多大なる寄与をされた宇佐美寛先生が久しぶりにお見えになり、上記、昔話に花が咲いたというわけです。
ついでに?この件、おさらいをしておきますと…。
その昔、わたしが「授業研究」誌の企画を担当していた(今のウン倍は出ていたなあ…、本当に雑誌も生き物ですね、はい)時、宇佐美先生に「教育用語をきる」ということで連載をお願いしました。
その中で、宇佐美先生がY先生の論文批判をされ、Y先生も当然、反論されたのですが、その反論があまりにもお粗末だったもので、“天下の東大教授ともあろうものが…”と、大いに話題をよびました。
なんといっても、この反論、事実誤認に立つ立論、実践からの遊離にもほどがあるということで、舞台を「現代教育科学」誌に移し、両者に間で往復書簡を展開しました。
そこでも、ま、あえていえば、Y先生の反論は、編集部員のケアレミスにこだわったような展開に終始している感じ…でした。
これを読んでいた若き日のM先生が、怒髪燃え盛り…ということでしょう、見知らぬ?編集部に子どもの授業批判文を、どーんと送ってこられ、そこから、
<出口論争→法則化誕生>
に至るという歴史ドラマ?に、つながったというわけです。
編集部の企画担当サイドでいえば、私・樋口が火をつけ、炎上しかかったら、先輩がヒノキ舞台に移し…(当時も、横取りされたのでは?という意見がありましたが、そういう次元で考えたことはありませんでした…)で仕掛けが大掛かりになったーという幸運?もありました。
だって、まあ、私が「授業研究」誌に閉じこめていたとしたら、あれだけの問題提起として浮上してこなかったのではーとも思います。
こういうウラ話を知人にすると、
<けもの道を開拓したパイオニアの方が名誉なのか、その“けもの道”が立派な道路になることを嗅ぎつける嗅覚力の持ち主の方が編集者として有能なのか?>
という“お題”として考えてみては?といわれてしまいました。
確かに…。
当日、八重洲のホテル会場で、若いお2人の女教師から、
「樋口さんのブログ、毎回楽しみに読んでいます。とても面白いです」
というご挨拶をいただき、お2人が“とっても、まぶしく”見えました…。
今回も、お読みいただき、ありがとうございます。


ランキング [2010年08月30日(月) ]



「ウチのHPでも、売れ筋ランキング100冊をやっているんだけど、どこまで自分がかかわった本が出るか、気になるからかしら。このところ、どうも、胃の調子が悪くて〜」
「大体、同じ先生のものが多いような気がする。人気がある人って、どういうキャラなの?」「一般書とは違うから、キャラ立ちと人気はイコールではないと思うけど、やっぱ、教室の日常活動と関わる問題でないと、お呼びじゃない!って感じ〜」
「それにしてもさ、何のかのといったって、皆、競争が好きなんだ…」

ってな話を導入にして週末、同業者と交わした話の焦点は、某評論家氏が、つい最近出した「緊急提言 デジタル教育は日本を滅ぼす」というハードカバーの書籍についてでした。
そこには、こんなくだりがあります。
「もし前向きに考えるなら、デジタル教科書の導入は教師のあり方を変えるチャンスでもある。
“はい正解”“間違い、次”とやっているなら、 デジタル教科書があれば事足りてしまう。学校も教師も、不要論が出てもおかしくない。もし、デジタル時代にも生き残る教育を目指すなら、教師は、子どもが手を上げて間違った答えを言ったら“面白いね。君はとっても面白い”“だけどそうじゃない答えもあるんだよ”と、発言したことそれ自体をほめてあげてほしい。」
ですと。。。
「それで、ついに、ここまで読んできて(ほとんどこの書籍の最終、結論に近い部分ですが)、頭にきたわけよ。だって、この人、今現在、授業を担当している現場の先生に何にも取材しないで、“ほめてあげてほしい”なんて、何さま目線なのよ」
「でも、連動してNHKでも、今夜、なんか、関連したことを取り上げるらしい…」
「それにしても、この本には、著名な人、たとえば、山谷えり子、寺脇研、藤原和博、陰山英男といった方々の話は出てくるけど、現場を支える現役授業者の声は皆無。ジャーナリストが、裏を取らない、私見だけ披露してて提言できると思われているってことは、教育界はナメラテるって、ことよね」
「デジタル教科書のイメ−ジが、“はい正解”“間違い、次”というのも、想像力の貧困。第一、今時の児童生徒が、そんな授業を黙って聞いているわけがないし…」
「それにしても、そもそもデジタル教科書、どういう活用を構想しているのかさえ、取材していない…」
「“セカイカメラ”を活用した授業だって行われているのにネ。
これを使えば、地域学習や歴史学習は全然違うものになるでしょうに…。
すでに岐阜県では、県が音頭をとってはじめたら、大人気らしいわよ。
関ヶ原の戦いーっていっても、現地には当然のことながら痕跡も何もない。
しかし、関ヶ原でエアタグを設置すると…って世界をもう満喫?している人が結構いるのにね」
東京ミッドタウン・大好きな毛利庭園での会話だったせいか、ここにエアタグ…。何が見えるのかな。


弟子の授業 [2010年08月23日(月) ]


「中国地方の先生から、市内の教師が参加するイベントで模擬授業を依頼され、“指導主事を子役にして授業を行った”ーという話をお聞きしました。
そういえば、貴県では、逆に?指導主事が市内の教務主任を集めたところで“授業の腕を試させられる”そうですね。」
「指導を担当される指導主事の、授業の腕がどうなのか?
指導される側が、さすが!ぜひ指導を受けたい!と願望するようでないところで“指導”が行われるとしたら、全く税金の無駄…」

というような話を、この土曜、予想以上に暑い新潟でしてきたのですが、全国的にはどういう状況なのでしょうか。
指導主事になるには試験があるところが、大半ではないか?とは思いますが、それでも?“え、あの人が?”と周りの人が驚くような事例もあるようです。
 まあ、教育関係のどういうイベントでも、授業以上に印象が濃いものはめったにないーと思います。
 わたしなど、講演は、ちょっとつまらないとすぐスリーピングタイムと化しますが、授業はまさか、眠ったりしたことは、さすがにない…です。
そういえば、この夏、梶田叡一学長の著作(私が担当したのではないですが、「教師力再興」小社刊)のなかに、30年前、OECDの「カリキュラム・セミナー」で、斎藤喜博先生の弟子として有名だった武田先生(のちに指導主事になられました)が、芭蕉の、
「道の辺の むくげは馬に 喰われけり」
という句を授業した時の指導の様子を発表されたとして、こういうことを紹介されていました。
授業はまず、この句を皆で読んで、言葉の説明をした上で、「どのような情景なのだろう?」
と聞いたら、子どもたちからは、「道端にむくげの花が咲いていて、それを馬がパクッとくわえたんだ」という、言葉そのままの情景を述べる言葉が次々に出てきたという。
で、やっぱりそうかと思ったと武田先生が発言されたとか。
つまり、初発の感想としてはその程度しか出ないーと予想していたわけであるーと。
それで、武田先生は、
「実は、この句は、馬上吟なのだ。作者が馬にゆられて、旅をしてきて作った句なんだ。そういう前提でどういう情景なんだろうか、もう一度考えてみてごらん」
というと、子どもたちの発言が変わってきたというレポートだったのだとか。
梶田先生はその場で、「私が、先生のクラスにいたら“先生は人が悪い。はじめから馬上吟だといってくれたらいいじゃないか。実はなんて言われたら、腹が立っただろうと思います」といった記憶があるーと書かれています。
この後、師匠の斎藤喜博先生がこの話を聞いて、
「確かに表面的には、自分が日ごろいっている授業展開の考え方によく似ている。(中略)しかし、OO君(梶田先生は名前を伏せていらっしゃいます)の授業は自分で準備をしておいた落とし穴に、子どもたちを落としただけではないか」といったのだとか。
梶田先生はさすが、斎藤先生といっておられますが、結構、こういう“後出し情報”で授業を引っ張っていく授業も少なくないーとは、新潟の先生方のご意見でした。
なんか、隠しておいて、後出しなんてー知的職業人のすることとは思えない…。




夏休み [2010年08月16日(月) ]


「先生の年代だと、日教組教研など行ったことはないのでしょうね」
「とんでもない。2年ほど前の教研、代表として乗り込んだら、生活つづり方派の講師から、こっぴっどく批判されたんだけど、言い返しているうちに、大論争になり、だんだん、私の賛同者が増えていき、3日目には、とうとうギャラリーの大方が、こちら側についた…」
「え、未だに、生活つづり方の信奉者っているのですか?」
「いる、いる」
「だって、生活を見つめるといっても、子どもの生活環境は、親のそれに依拠せざるを得ない訳だから、ある意味、どうしようもない身の不運を確認させることだってあるわけでしょう…」

この夏休みにお会いした方との会話記録です。
お相手の先生は、なんと30代チョビチョビの若い教師です。
20年前ならともかく、この体験談、2年前というではありませんか。
まさに、エー、教育界って、まさにパラタゴス状況ーですね。。。
これで、その昔、M先生からお聞きした話を、思い出しました。
それこそ、30年前の教研、生活指導部会での顛末記。
なんでも、班づくりをめぐる大論争が起き、主流派の某研究会が隆盛だったのを、3日目には全く形勢逆転し、それこそギャラリーは、反主流派に皆、なびいてしまったのだとか。
この話と全く同じパターンの話を、まさか、M先生より30歳以上若い教師から、お聞きするとは。。。
それにしても、1000人もの人を相手に、たった一人で大論争を繰り出す気迫は、やはりなんか、独特の才能を感じます。
多分、使命感だけではできない、何か、オーラのようなものがあるのでしょう。
ご相談させていただいた案件にも、独特の“読み手を意識して発信するオーラ”があり、なるほど、ダテにこういう企画が出るではないのだと思わせるものがあふれていました。。。
実は、この若手を、それこそ2年前、組版をめぐって、あれこれ、かなり嫌味たっぷりにイジメた…、にもかかわらず、めげずに完成させたので、びっくりした体験がありました。
今から思っても、普通、プッツンするだろうなという要求だったのに。。。
(こういうと、私が何か、いやに横柄なニンゲンに思われそうなので、急いで、ベンカイを付け加えると。。。)
普通は、おしとやかで上品というイメージの私(自己申告ですから、本当のことです!)、めったに、組版などでごちゃごちゃいわないのですが、虫の居所が悪かった?
いえいえ、今から思うと、相手の器に応じた?対応だったのでは。。。
なにしろ、千人を相手にした大論争を威風堂々、展開する人にふさわしかったのでは…。
という結論で、お互い意見が一致して、ほっとしているうち、子ども時代同様、あっという間に終わってしまった夏休みでした。


霊感 [2010年08月02日(月) ]


 
「“どうして、そういうことがいえるのですか?
あの人たちのどんなものをお読みになり、どこが、どう問題なのでしょうか?“
 って突っ込むと、
“読んでいない、読まなくてもわかる”
 という人が多いのには、ほんとに驚く…」

この週末、同業者との飲み会、男子編集者の発言です。
私もつい、アルコールが回ったせいか、
「“いる、いる”その手の人。
黙って座ればぴたりと当たる手相見か、霊感商法の人みたいなのが。。。」
とか、調子にのって、さらに上乗せ、
「こういうことまで言う人がいる。
“あんな本買って、奴に儲けさせることは無い”なんていってさ。
一体1冊、買っていただくと、いくら儲かるっていうのよ。
それに、普通の庶民は、あくせく働いて今月はナンボの世界で生きているから、
“読まなくてもわかる”なんていう人を偉ぶっていると反発するのよね」
 とか、喋りまくりました。
 今、こうして打っていて、ふと、
“読んで、ミイラ取りになる危険を直感するから接近しないのかもー”
とか、プラス思考?をしてみたり。。。

それにしても。
この数年の間に、彼氏の存在感が、飛躍的に上昇していたのにはびっくり、しゃっくり〜ものでした。
私が過去に企画した本が、著者側からのアプローチなのか、編集側の提案なのかという具合に企画の心臓部を根堀り、葉堀りドリルされ…、という具合に。
やはり編集者は、
“質問力で勝負”
だと再確認したりしていて、危うくシンデレラタイムになりそうに。。。
週末は、どうも、飲み会に飲まれそうになる、危うい日々が続くーのでありました。



ひいき [2010年07月26日(月) ]


「ぼくの中1の先生はぼくをひいきしている。ほかにもひいきされている人はいる。
でも特にぼくをひいきしている。でもなぜぼくをひいきしているのか理由がわからない。
いつかつぶしてやる!!」

「将来への不安」という中学生のつぶやきです。
ある先生は、
★「どうしてひいきするのだろう?つぶすってどうするの?あなたを頼りにしているのかも知れませんよ。先生に尋ねて、あなたの胸の内をぶつけてみましょう。今より少しは晴れ晴れとした気持ちになるかもしれません。」と言うコメントを寄せられました。
私のような、部外者には、
★「先生から、ひいきされている」と思っている、周りもそう思っている・・」と、ご当人が思っていると言うのは、大変危険な信号に思います。イジメの格好のターゲットにされる可能性がありそうです。
その証拠は、つぶしてやる!と言う生徒の声です。
権力者に可愛がられるというのは、仲間からは嫌われるのが、世の常というものでしょう。
「ティチャーズペット」と言う言い方もあるじゃありませんか。
中学生には、絶対に許せない感覚だと思うのです。
みんなの前で、褒めるーは大事だとは思いますが、“また、ゴマスリやがって”とか、“いいカッコしやがって”というような、<カラカイからイジメに発展>することも、あるのではないでしょうか。

人生で一番、美しく?純粋なのは中学時代と、信じて疑わない?私としては、どう考えてもこういう回答は納得できないでいます。
そういえば。
わたしの予断と偏見では、学校で起こる“イジメ”の何割かは、こういう教師発の良かれと思っての行為が遠因ではないか?と思うのですが、どうでしょうか。
もちろん、発達障害の子を先生が過度にひいきしているーというような事例も体験しました。でも、このような時の、先生の対応には、クラス中が尊敬のまなざしを向けていました。そのような時は、“ひいきすることが正義”なのだと、大衆はちゃんと知っているのだーという気がします。
ーやはり、多くの人にとっては、“私的感情からのメッセージ”と“公的姿勢から出るもの”とを本能的?に見分ける精神があるのだと思えるのですが〜。
そうはいっても、私の意見が間違えたメッセージだったらと、不安です。
この“断片的情報”からの診断と対応について、ご意見をいただけるとありがたいです。
それこそ、文字通り、企画のツイッターという新しい世界が開けるといいなあーという期待をこめて。。。


その”ひと言” [2010年07月20日(火) ]
               
 

「廊下の電球は1つおきに球が抜かれ、各教室はいちいちカギがかけられ、事務に行ってカギをもらってからでないと部屋も使えないし。
第一、今時、電話はダイヤル式なんだ。
それに、あのエレベーターは見学にきてもらいたい。だって開閉扉は手動なんだ。」

ここまで読んだら、誰だって?某帝国の歴史的建造物の話?と思うことでしょう。
それが、それが、です。
今現在の、東大・地震研究所の現役?の建物のレポートなのです。
住人は皆、密かに、“地震がきたら真っ先に倒れるのが地震研”と、ここだけは?予想的中の精度を誇っているのだとか。
先週、飲み会で聞いた、ほやほや話です。
まあ、東大全体の電気料金は2桁の億単位ではということで、節税協力のようですが、地震予知の精度だけは節約ムードに流れないようにして欲しいものです。

怪談話はこれぐらいにして。。。
先週、<男性編集者は自分の名前が大好きなのよ>という実態報告をしたところ、同業の男子編集者から、反論がありました。
つまりーこうです。
「子どもの時は、映画を見るにしても、好きなスターが出るから見たいーというような感じで選ぶのだけど、大人になったら、まさかね。
やっぱり、監督が誰かで選ぶでしょう。
本もさ、
<プロになると、著者名もさることながら、企画した編集者は誰かで選ぶようになる!>」
のだとか。
「うーん、そうかなあ。もちろん、そうだといいけど。」
でも、それって、あまりにもガンボウ的憶測。。。

そういえば、つい数日前、「転向論」でも名を馳せ、東工大教授だったN先生から、
「社長でもないのに頑張っていて、君も偉いね」
という激励?の電話を頂戴しました。
それをいってくださるなら、
「社長にイジメラレテいるのに頑張っていて、君も偉いね」
でないと、今置かれている出版社の正確な状況ではないのにーと返事したかったのですが、なぜか、ぐっと“その一言”を、飲み込んだのでありました。。。



自分の“名前” [2010年07月12日(月) ]
             

 

「“まえがき”にも、“あとがき”にも何の謝辞もない。だから、ちょっと違うんじゃないか、っていってやった」
「じゃあ、自分の名前を入れるよう、ライターに要求したって訳ですか」
「あなたの名前を入れると逆にご迷惑をかけるかもしれないと思って入れなかったけどーなんて言い訳していたけど、校正刷りで入れてきた…」

だいぶ昔、某、先輩から聞いた話です。
「わたしは、“まえがき”や、“あとがき”に自分の名前が載っているかどうかなど、ほとんど何の興味もないんだけど…」
と同業の“同姓の友人”に告げると、
「ウチでもそう。男性編集者って、仕事そのものより、自分自身が大好きだから、自分の存在の印、名前が載っているかどうかに異常に関心があるようよ」
という内輪話に発展しました。
話の発端は、「社会科教育」誌で、「歴史用語の問題」を特集したいと、網野善彦先生の著作を積読の山から引きずりだして読んだものの中の、“あとがき”に登場してくる編集者の存在感に、圧倒されたので、つい電話しちゃった?からでした。
でも。
網野著のように、あれだけのことをして初めて、登場してくるのが、編集者ってものでしょうから、うち等は未来永劫に“ありえない”と、妙なところで意見が一致しました。
それにしても。
網野著で、私の名前、「雅」について触れている“大当たり部分”を発見しました。
西日本では、“あの男はがいな奴だ”といえば、“強情でわがままな奴”という意味だそうですが、その“がいな奴”のガイは、雅意という中世のことばにたどり着くのだそうです。(東日本では、“がいな奴”という表現は聞いたこともありませんでした。事実、こうしてPCを打っていても、“がいな”に赤線が登場していますもの)
そして。
雅意の“雅”という文字は「もとより」「本来」などという意味が含まれているので、雅意の本来の意味は、<普段から持っている気持ち>だったのですが、それが、「思い立った心のままに」の意で使われるようになり、さらに「自分勝手な考え」「勝手気まま」などの意味に転化していったーのだそうです。
たしかに、雅がつく名前の持ち主である私も、「思い立った心のままに」行動派。。。
やっぱり、名がタイを表しているんじゃないのーでしょうか。
なお。
これから、雅意精神で、
<百姓イコール農民>だなんて、刷り込んだ浅薄な歴史教科書用語を、何とかして欲しいキャンペーンを張って行くつもりです。


涙の走り方 [2010年07月05日(月) ]

 

「ウチのオリジナルですっていわれてもね。あの味ではね。
もっと真面目にやれっていいたくなる…」

週末、赤門の前の結構有名な喫茶店で食べた“そのお味”ときたら。
あまりの味のなさに、砂糖控えもいい加減にしてよー談義に花を咲かせました。
食べる側は、それなりの味を期待しているのですから、勝手な思い込みの押し付けは止めて欲しいという商品が結構あります。
そういう小社の書籍にも、発信側の勝手な思い込みで読者ニーズとかけ離れているものも“ある・ある”でしょうけど、とか言いながら、ふと。。
教育書としてはやや異色の書籍を、ボウケン心を奮い立たせ出版したのに、一般書の出版社さんが早速、著者アタックしてくるという体験を立て続けに浴びせられました。
これって、やはり、出版界の創造性の貧困を物語る以外の何者でもない。
これでは、知の最前線から脱落するわけだーとか、ぷんぷんして、友人に愚痴ると。。。

著者とのコミュニケーションが不足しているのではないか?という、お見立て。
そういえば、自分のブログも発信しっぱなしーリアクションがあるかどうかも見ていないなあと本日、数か月分スクロールして。。。
「ごめんなさいー今まで見ないでいて…」
という、励ましの温かいお言葉などに触れ、友人の忠告が身に滲みる週末となりました。
そういえば、朝刊に、「女優の吉永小百合さん(私の父親は、校区だったのか、小学生の彼女に逢ったことがある?ようで「吉永小百合」とだけしか書いてない名刺を見せられたことを思い出しました)が“どんな時に、もう若くないという感じを抱きましたか”と聞かれ“涙が真っすぐに流れないで、横に走った時です”と答えた」とありました。
「たしかに…」と、おしゃべりついでに、友人に告げると、
「そういえば、最近の女子は、泣かないよな。昔は、トイレで泣くとかいわれたけど、弁当は食べても、泣いたりはしないんだろうな…」
ですって。
まあ、私など、今や「涙も枯れ果てて…」という、中島みゆきの世界を放浪しているので、もう涙がどう走るかさえ、実験は不可状態。。。
そういえば、真っすぐに流れたころには、涙もまだ、それなりにあったのに、あれらは、どこへ逃げていってしまったのでしょう。






目次の効用 [2010年06月28日(月) ]
「その昔は目次なんて必要なかった。端から隅まで全部一気読みしていたから…」

添付したような、目次の模様替えをした印象をお聞きした先生からの返メールに、ちょっぴり、いえ、かなりショックを受けました。
確かに、面白い本など、目次など見ないものです。
「ああ、楽しかった」という余韻を味わうべく?目次や装丁を改めて見るという感覚でしょうか。
しかし、本づくりの現場人としては、中味と同時にどうしても、外観にもこだわるので、本格派の明治人的気骨?ある人からは、“軽薄”といわれてしまいます。
しかし。
書家の紫舟さんの文字など、
<象形文字のよさ、ここまであったのか…>
と思える仕事だし、浅葉克己氏なども、
<想いが形になるー仕事ぶりなど、まさき“尊敬”の1字あるのみ>
です。
そういう、発信をひっくるめてが“本づくり”だと思ってきたのですが、読者の側にはそういう意識はないーと、なると。。。
本日、「社会科教育」誌の8月号の校正刷を点検していて、原稿で見たときよりも「何よ、これ」というものを発見し、これまたショック。
大阪のある大学の先生が書かれたもの(「社会科語句をめぐるホントにあった面白話」というタイトルで依頼しています)ですが、
「とある国のお話である。近年そこでは伝統・文化の学習がブームである」
という出だしから、斜に構えたイヤな感じですが、「00文化とラベリングし、他と差別化を図る政治性が問題視されたのである」とあり、〆は、「とある国の“面白話”である」。とリフレーンしています。
こういう文を読むと、編集者である前に、読者の一人として、“むかっ”ときて、そのあと、“穴があったら入りたい気分”になります。
社会科の教師は“暗いオタク”と思われているとか、いいますが、その次元ならまだしも、自分が所属している国を“とある国”とカッコつける“何様気分”には、愛想つかされても仕方ないかな…と、思ってしまいます。
じゃあ、掲載しなければ…、という選択もないわけではないーと思いつつ、
「“とある国”は、“言論の自由”を何より大事にしているのである!」
と自分に言い聞かせています。
「依頼側と発信側は、やはり同床異夢なことが多い?」
と同業の友人に体験談を聞くと、
「依頼者側の“QOLを測るバロメーター”じゃないの」
のだ、そうです。

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